Mon Souvenir de la France

フランス留学で学んだこと・感じたことの覚え書き

【人種ってなに?】移民国家のフランスから考えたこと

「ニーハオ」

フランスを歩いていると、よくこう言われる。

大体この様なことを言うのは道にたむろしている連中なのだが…

『あ、こっち見てる』
『あ、ニヤニヤし出した』
『来るか?来るか…?』

「ニーハオ」

『きたぁぁあ』

『』内は私の心の声

というパターンが定番だ。
彼らにとってアジア人顔はみんな中国人なのだろう。
まぁ中国の人口は凄いから、数打ちゃ当たる方式でニーハオ言えば本当の中国人に当たるかもしれないが

私は日本人だ

そう思って留学最初の数か月は無視していた。

言われたらやり場のない悔しさにもどかしくなるものだ。
少しプンスカしながらその場を何も聞こえなかったかのようにスルーしてやり過ごすことが多かった。

フランス人の友達にこのことの愚痴をいったら

「あいつらはバカだから仕方ない」
という意見もあった。

しかしこんなことも言われた。
日本人だって外国人にHelloって言うでしょ?
アジア人の見分け方は難しいから

…何も言い返せなかった。

確かに私も日本に居た時は、日本に居る全ての外国人に対して無意識に英語圏の人たちというイメージをもっていた。
それにアメリカ人・フランス人・ドイツ人・コンゴ人・キューバ人なんて私には見分けられない。
全部ヨーロッパ系・アフリカ系・アメリカ系という具合に括って認識していた。

「ニーハオ」と声を掛けてくる彼らもそれと同じではないのか?とふと思った。

それからというもの、私は「ニーハオ」と言われたら返事をするようにしている。

 相手「ニーハオ」
 私 「二~ハオ(中国人のアクセントに寄せる笑)」
   「Mais en fait je suis japonaise ....bla bla bla いやでもね、実際私は日本人なんだよ」
   「だからニーハオじゃなくて『こんにちは』だよ。あはは」

そう言うと相手はごめんごめんと悪気はなかったことを詫びてくる。
大体の場合は両者アハハと笑ってその場は終わるが
その流れのまま日本の話になったり今留学中だのなんだの会話に発展し、握手かビズをしてお別れすることも何度かあった。

プンプン意地を張って無視していた時は、きっと相手も無視されたことにより何らか負の感情を抱いただろう。

その頃よりもお互いが良い気持ちで終われる形になったと思う。


しかしある時ふと疑問に思った。

私は約1年の間だけ滞在している留学生であって、ある意味観光客と近い感覚だ。
だから別にニーハオと言われても、少しは嫌だが特段傷つくことはない。
しかしこっちに昔から住んでいる人たちはどうなのだろう??

フランスは移民大国だ。
見た目はアジア人でも心はフランス人という人はたくさんいる。

そういった人たちも、こういう経験をしているのだろうか?

見た目はアジア素顔はフランス

その名も・・・・!!!

私の友達の話だ。
彼の見た目は私たちと同じアジア系
彼の両親?祖父母?(曖昧な記憶)は戦争がきっかけでフランスに移住したらしい。
よって彼はフランスで生まれ、フランスで育ち、フランス人の心を持っている。

その彼も、上記の私と同じように街中で「ニーハオ」と言われるそうだ。

辛いしやり場のない気持ちになると言っていた。

そりゃそうであろう。
そういう生い立ちにない私ですら、そんなの辛すぎると想像できる。

彼は「フランスで生まれて、フランス人と同じような心を持っているのになぜ?!」
と強く訴えかけていた。

言い返さないの?と聞いたが、言い返したって無駄だと彼は言っていた。

私は言い返しても、上に書いたように解決口がある。
しかし彼はフランス人なのだ。言い返したところで解決口にたどり着くには複雑過ぎる。

移民国家フランス

フランスは、ヨーロッパ内でも屈指の移民国家だ。
かつては移民に対して寛容だった国も、近年は経済や治安の悪化により移民問題への意識が強まっている。
この話は長くなりそうなのでまたおいおい…。

ということで、フランスには色んな外見を持った人がいる。

ヨーロッパ系、アラブ系、アジア系…
白人、黒人、黄色人種
本当はあまりこういう言い方はしたくないがな…

彼らの中には生粋のフランス人もいれば、移民してきた人もいる。
移民2世・3世だが、生まれも育ちもフランスだという人もいる。
生粋のフランス人と移民系の人が結婚し、そこから生まれた人もたくさんいる。

そんな様々なバックグラウンドを持つであろう人々が一つの箱に集まるメトロの中でふと思った


人種ってなんだ?


日本に居た時は、『その国で生まれてその国で育ちその国の言葉を喋る』もしくは『見た目』という単純な括りで人種を判別していた。
しかしヨーロッパ(人種のるつぼアメリカも?)ではもはやそんな概念通用しないのではないのか?と考えるようになったのだ。

上にも述べたように、見た目やバックグラウンドは外国のものでも、その国で生まれてその国で育ちその国の言葉を喋る、心はその国の人間がたくさん居る。

大切なのは、その人自身が自分のことをどう認識しているかだ。

『人種』というフィルターに捉われることはもう時代遅れなのではないのか?
少なくとも様々なバックグラウンドを持った人が混在するフランスにおいては、そんなことは考えれば考えるほど無駄なように感じる。


人種=その人


の方がしっくりくる気がした。
「十人十色」という言葉のように、「人種」とはその人の生まれ・起源・身体的特徴を一般論に合わせて定義づけるものではなく、その人自身が自分を何者として認識しているかという点はもちろん、その人の性格や思考や身体など、ひとりひとりの持つ『個性』を反映する言葉として捉えた方が今の私にはしっくりくる。



世界中のみんな仲良くなろうよ!だなんて平和ボケしたことは言いたくない。
これは大正解の無い問題である。
また違った切り口から見ればこんな考え方は通用しないとも分かっている。


もっと人間的にシンプルに考えた結果、そのように思ったのである。


まぁ、難しい価値観ではあるが。
少なくとも、もっと素直に1人の人間として向き合う大切さを感じたのだ。